昭和50年01月21日 朝の御理解



 御理解 第79節
 「商売をするなら、買い場、売り場というて、もとをしこむ所と売り先とを大事にせよ。人が口銭を十銭かけるものなら八銭かけよ。目先は二銭損のようでも、安うすれば数が売れるから、やはりその方が得じゃ。体はちびるものでないから働くがよい。」

 教祖様が、言わばお百姓の身で商売人のことを知っておられた。言うならばあの商売の道を知っておられたとは思われません。けども此れはあの商売人に対する、言わば此れは御理解ですけれども。教祖様が商売に対して、例えばこう言う御教えを下さると言う事は、理を持って説かれたんです。商売はなされたことは無い。商売の駆け引きなんかも、知られるはずはない。
けれども言うなら、何事にも信心になれと言う所から、こう言う風に教えておられる。此れは又事実商売人がこの気持ちになったら、もう絶対大繁盛間違いないです。ね。売り場買い場を大事にする。所謂元を仕込む所と、お客さんを大事にするのですから。しかも他所よりも十銭のものなら、二銭安う売ると言う様なね、生き方をするなら、もう此れは絶対繁盛間違いない。しかも身体はちびるものではないから、働くがよいと仰る。一生懸命働くなら間違いないね。
 けども此処にです、本当にそれは我情我欲があってはね中々出来ない芸当です。ね。所謂何ていうですかね、潔さというかね。まぁ昔から損して得取れと言った様な、まぁ商売に対する一つの金言ですけれどもね。もうその辺の理と言う物をです。此れは私信心のあの言うなら理、言わば道理と通うものがあるのです。だから此の様なその物ずばりに、潔い言うならば考え方を身に付けて、お商売をさせて頂けと言う事なんです。
 今朝から私はあの豊美が行っとります古川の、古川隼人先生の、今月が亡くなられまして丁度一年ですから、一年祭に当たるのです。それで御霊様を拝ませて頂ながら、今年は貴方の一年の式年に当たります、それで合楽で出来る事なら、私で出来る事なら御用させて貰いたいと思いますが。まぁ希望というか願いがおありになるなら、どうぞ聞かせて下さいと言う意味の事を申しましたらね。
 捧げた物には、あの捧げた物にはね、もう何にも要らないと言う意味の事を頂いたです。私は改めてですね。古川先生が、なら教団の為に何時も命を張っておられたと言う事を。何時も捧げておられたと言う事を、あの金光教の、あのそれこそ黒い霧と言われた。大正何年でしたかね、大正八年でしたか。所謂金光教のお家騒動だと言われる、あの時代あの時分に何を何かねもう次期金光様の、それこそもう矢面にたっての、命がけでの矢張り御用だったそうです。
 同時に又あの当時は教団きっての学者で御座いましたから、教学面でも言うならば、そらまぁご親戚だから。教祖様とは言うならば孫子の孫と、爺様との関わり合いになるお方だから。そりゃ金光家の為に尽されるのは当たり前ですけれども。金光教の為に教団の為に捧げきっておられたと言う事です。色々と矢張り風評する人も、やっぱりありますけれどもね。その教団の為に何時も捧げておられたと。此れは私共がしてまいりましても、何時もそれこそ学者が眼鏡を掛けて年をてっても本を読む様なもの。
 それが信心だと言われますが。もう是こそ、そらもう大変な難しい、所謂教学の研究を、あのもう沢山の書物を参考書を置いて、それをあのなさっておられました。休んでおられても、やっぱりこの見台を置いてから、そしてやっぱり本を読んでおられましたがね。それはほんなら他の事じゃない、みんな矢張りあの金光教の為なのです。教学を愈々あの深くね、尽くしておいでられた。だから捧げたものにはです、その言うならば、一切のものに恵まれておられると言う事だと思います。
 最近あちらに参りましてから、あの先生がおられた時分と、現在と言う物がもう本当に、どうしてこんなに、例えばお神酒なんかでも、集まるだろうかと言う位に集まったんですね。お好きでしたから。ね。それはやっぱりその、布教の場には立っておられないけども。教団の為に捧げきっておられた。捧げたものには、まぁ言うならば捧げると言う事はもう、欲は無いと言う事です。ね。ですからそこには限りない、言うならばおかげに繋がる事が出来るんだと。
 最近私が皆さんに、もう限りないおかげと、ね。それを玉水の湯川先生の言葉を借りると、ね。「人間の懐ども当てにするな」と、「神の懐に手を突っ込め」と、教えておられたと言う事がね。最近こうおかげを頂いて見て解り出して来た様な気がするんです。人間の懐。例えていうならば信者ども当てにするなと。取次ぎ者としてはもう神様一本だと。信者の顔色でも眺めた様な事では、ゴヒレイは立たんぞと言う事でもあり、例えばほんなら、此れを商売人に置き換えますとです。ね。
 それこそ利とか得とかと言うなと。もうとにかくお客さんが喜んで下さればという奉仕精神捧げる心なのだと。ね。そこにはお客さんの懐を当てにするじゃない。神様を信じ神様を当てにしいや教祖様がそう教えておられるからと言うのである。ね。昨日二度目のお参りをされた時に佐田の若奥さんが言っておられました。最近主人の信心の飛躍にもうびっくり致しますち。あの倉庫が丸焼けになってこっちの佐田さん所のゴヒレイと言う物は、ゴヒレイというか繁盛振りと言う物は本当にびっくりする程である。
 しかも今度それこそ、あの皆さんに押されて西日本水産の社長に、正式になられました。ですからまぁ大変な事だろうと思いますけれども。もうとにかくあの我情我欲どんがあって出来る事では無いという事。まぁ、例え一つの例を言うと、もうとにかく親先生が、あぁ言われるからと言うのである。だからあぁ言われるからそうすると言う生き方。最近そう言う実例を色々言っておられましたが。今度の市長選の事もそうでした。不思議に自分が投票した、あの人は落選する事に、昔から決まっとった。
 けれども親先生が、近見市長の事を、あぁ言われるから、ね。自分がもし入れたら落ちられるかも知れんけれども。ね。あぁ言われるから、あの実を言うともう一人の方は、自分の習われた先生だそうです、ね。けども親先生があぁ言われるから、それを二言三言でありませんが、最近の先生があぁ言われるからと言う所からおかげを受けて、私の生き方私のあり方がね、今までは私が例えば金を貸したら、あの金を貸した人がおかげを頂かんと言う事実があった。ね。
 だからこら私の信心も、私がお金を貸しゃ、絶対助かられるんです。私が入れれば必ず、当選されると言う様なものを、最近感じておるとこういう。私はその主人の話を聞かせて頂ながら、もうほとほととても女子どんが勝つっじゃ、どげんばたばたしたっちゃ、勝たんと私は思いましたという話しを、言わっしゃっておられます、ね。例えば此処でもそうです。ね。教祖様があぁ教えられるのだからです。神様が教祖様が、十銭のものを八銭で売れと仰せられるのだからと。
 もうそこにはね我情とか、我欲とか欲とか損じゃないです。ね。私はあの神様の無限の働きというか、無限の言うなら懐に手を突っ込むと言う事はね。そう言う事だと思うです。そこに限りないおかげの頂けれる働きが生まれて来るんです。ね。先生はあげん言いなさるけれども、そろばん取ってみる。ね。それでは成程理の上では、それの方が良い様ですけれども、結局利害の利であります。理屈じゃないです。親先生があぁ言うてだから、親先生の言われる通りの事をするとこう言う。
 もうその生き方で行くより仕方が無いのです。仕方が無いち言うがそこまで信心が進まれたち言うと同時にです。そう言ういろんな責任の上にとても佐田恭三の才覚位で出来る事じゃ無いと言う事です。ね。まぁそう言う線で進んでおられてなら現在の繁盛を、まぁ見ておられる訳ですけれども、ね。私はそれを聞かせて頂いてからもうほとほと感心しました。またま私が読ませて頂いておる本に、こう言う様な歌が出ておりました。徳川家康がね。木村重成を評して歌った歌だと言われておるそうです。
 それが私が何時も皆さんに聞いてもらうのと同じ意味だったから、尚共感を呼んだ訳で御座いましょう。「梅が香を、桜の花に匂わせて、柳の枝に咲かせてぞみる」と言う、ね。言うなら敵方である所の、木村重成のあまりの人物の素晴らしさにですね。こう言う歌をその重成の為に作ったち言うんですよ。皆さんもご承知の様に、あの血判取りの場なんです。ね。「梅が香を、桜の花に匂わせて、柳の枝に咲かせてぞみる」そう言う全てが足ろうた。品格といい度胸といい、才覚そのものがです。
 あまりにも素晴らしいので、敵の大将である所の徳川家康が、重成をほとほと感心した。秀頼公は良いお家来を持って幸せだと、ね。木村重成のお話の中に、ね。まぁだきんしゅうを勤めておった時、ね。あの茶坊主との、あの話がございましょう。お風呂に入っておってこう、その湯気が立っておるなかで、大変腕白な茶坊主がですね。人間違えて木村重成の頭に拳骨を食らわしたと言うわけです。
 所が木村重成であった。所が顔色も変えない。それでその言うならば、腰抜けだというて、それから非常に軽蔑する様になったち言うのです。ね。そし、あの若さで選ばれて、血判取りの事がやってのけられた時に、その茶坊主があの断りを言ったと言う話があります。もう全然茶坊主位の事には、問題にしてなかった程しの器量人であったと言う事が解りますです。なる辛抱は誰でもする、ならん辛抱堪忍は、するのが本当の堪忍だと言う風にどん、歯を食い縛ってと言う風なものじゃなくてですね。
 人間茶坊主如きには、もう問題にしていなかったと言う事なんです。ね。愈々最後のあれは秋の陣ですか夏の陣ですか。時にはもう死を覚悟で出陣した。時には自分の兜の中に香を焚き込んでと言う様なその、ゆかしさと言うかね。私はその事を読ませて頂ながらね。あの佐田さんの話を聞きながら、この歌をです思うて見たです。ね。「梅が香に、桜の花を匂わせて、柳の枝にさかせとぞみる」と。どうですか皆さんぴったりと言う様な感じはしませんですか。私は此れを私ふうにですね。
 「梅の香りを、桜に持たせ、枝垂れ柳に咲かせたい」此れは都都逸の文句なんです、ね。同じ事」です。合楽の信心はどうもまぁ言うなら、桜の花的な華やかさはあるけれども、信心辛抱が欠けておるとか、素直さが欠けておるとかと言われる。だから私の言うならば、性根にもう一つですね。信心辛抱の梅の花を添えて、そして愈々神様の前に純粋な素直さを捧げようという、言うならば合楽の信心の、まぁスローガンと言うても良いでしょうね。
 お互いがそれを目指すと言う事なんです。ね。素直さが欠けておる人は素直さを、ね。辛抱力のない人は辛抱力を、ね。自分には潔さがない。桜の花の様なそれこそ、ぱっと咲いてはあの散る潔さがない。その潔さがない所を、潔い信心を身に付けて行こう。信心には度胸がいる。その度胸を一つ作って行こうと言った様な精進させて頂いて、初めて此れが足ろう訳です。ね。それこそまぁ誰が見てもですね。ゆかしいと言うか、それこそ徳川家康が、重成を評しておる。
 そういう私は、足ろうたおかげを頂かせて貰わなきゃならない。ね。今日の七十九節からです。ね。此れは商売に対する出すけれども、商売人がお客様に対する売らんからの為の奉仕ではなくてです。教祖様がそう仰せられるからだと言うので無からなければいけない。ね。親先生があぁ言うてじゃからと言うのです。ね。そこにですほんなら、お客さんに捧げる信心が生まれて来るのです。ね。
 大サービスとか大奉仕とかと言うても、只それが売らんかな、売る為にです。そうやっておるというのでは、成程それは売れるかも知れません安く売れば。けれどもね限りない物に繋がっって行くと言う事にはならんのです。ね。為には私は、今佐田さんの例を取って申しました様にです。この歌の文句から、皆さん感じられた様にです。自分に欠けておるものをです。私は身に付けていくという精進をさせて頂く。
 先日富久信会の時に、信徒会長が発表しておられました。今年に入ってからもうとにかく、御用御用で神様の松影会信徒会、様々あちらの教会からお話に来てくれと言われりゃ、そちらにも行かれると言う様にです、ね。もうとにかく自分の仕事と言う物は、是しこしかしとらんけれどもです。けれどもやっぱり、つがめだけは合うて行くという意味の話をしておられました。とても潔さがなからにゃ出来るこっじゃありません。そらもう永年の体験からです、ね。あのもう言うならば、手形なら手形のとき。
 もうどうでも出来ない筈の所がです。やっぱお繰り合わせを頂いてきておられるから、ね。私はそういう言うならば、潔さと言った様なものが、どうしても金光様のご信心には要ります。ね。そして古川先生の御霊様から、私が今日頂いた様にです。捧げた者には、言わば我情我欲と言う物がない。あれが欲しい、此れが要ると言う事は無いて。捧げた者にはです。もうそれこそ必要な物が必要に頂けれる程しの物であると言う事である。もうその代わりに秋永先生が言っておられます様にね。
 もうその代わりにもう何日振りかに店に、何日振りと言うがやっぱり、今日からお商売に掛かるぞといった日は、どうもやっぱいかんそうです。もぁだ、ぴたっとその来ん訳です。だからそこんにきは、もう少し是から先生の修行が必要だろうと思うんですけれどもね。そしてこの商売人になりきってしもうて出ると、まぁさぁ忙しい事それこそ何日分も一遍にせんならんもんだから。そのタイミングの良さと言う事には、また驚いておられます成程何日分も、此処に纏めておられると言う感じがするんだという。
 この頃富久信会の時の、此れが発表でありました。ね。どうしても私は、此処に十銭の物を八銭で売ると言う事でもです。ね。潔さが無からなければ出来る事じゃない。しかも教祖様が、あぁ教えて下さるのだからという生き方。ね。そういう生き方を身に付けて行く内にです。私はあの成程自力ではない、他力の信心。言うならば神様の懐に直接、お客さんの懐を目当ての商売ではなくて。神様の懐を目当ての信心と言う事がです。この七十九節から伺われるのです。
 だからこらほんなら商売人だけの事では無い事が解ります。そう言う信心がですね。商売人がお客様に言うならば捧げる様な心でです。私共が家業にいそしませて頂いたら、それこそ身体はちびるものではないから働くが良いと言う働きを、ね。愈々して行く所のおかげを頂いたらです。ね。その方が得じゃと仰る。ね。此れは儲かると言う意味じゃなくて、その方が徳が受けられ生んだと言う風に頂かなければならんと思うですね。
   どうぞ。